I'm still alive.

まだ生きています。

「生きていても意味がない」ことを理解しつつ生きることの重要性

人間、考え詰めると、次第に厭世的になり、最終的に行きつくの先が「死への憧れ」である。ここに流されるまでの過程は人さまざまだろうが、やがて大抵の人がここにたどり着く。道中で人々は「生きていても意味がない」とか「生きていても仕方がない」などとため息まじりにつぶやく。そうして、世間から離れて生きようと、そう決意するようになる。少なくとも、心理的には世間と距離を置こうとする。いわゆる厭世的な人間というのは、ここでずっと立ち止まっている人たちだ。まるで、私たちはこれ以上先に進めない、私たちは道の最後までたどり着いたのだとでも言わんばかりに。

しかしながら、現実問題、私たちには生活がある。夜中に目を覚まして、しんと静まり返った部屋で不安に浸されている。冷蔵庫の中の食糧を、居間の電気を、深夜に点滅しているルーターの光を、家賃やローンを、明日の仕事を、私たちは気にしながら生きている。誰もがみな、社会的な構造の一部として、この世界に組み込まれている。この束縛から逃げることは容易ではない。高い知能があるとされているセオドア・カジンスキーでさえ、失敗したのだ。勝ち負けや社会というのものが一時的に正しいものとされているということは誰もが理解していることではある。しかし、私たちは日常と称してこのゲームを続けていく。

と、目覚ましが鳴って、いつものように朝がやってくる。会社に出勤して、生活のために働かなければならない。生きていても無意味だとわかっていながら。この無意味であるという感覚が、消えることはないだろう。ふとした瞬間に頭の中に想念として浮かんでくるだろう。そして、これを一種の真実だと自分は感じているだろう。この嘆息に比べて、現実の自分のなんと白々しいことか。だがね、生きる決意をした時、確かに君は成長をする。白々しくも、淡々と日々の生活を続けようじゃないか。前に進もう。同じところで悩んでいても仕方がない。これもひとつの罠なのである。絶望とは、この世界に対する復讐の叫びに過ぎない。君にとってこの世界は酸っぱい葡萄なのか?

もう自分を卑下するのはやめて、身体が感じる以上のことを感じようとするのをやめよう。身体が感じる感覚より、落ち込もうとするな。身体が感じる感覚より、低く自分を見積ろうとするな。私たちの存在は、身体の感覚が感じる以上のものでは以下のものでもない。君は、自分が思っているより、ちゃんと生きている。この世界に同定されている。遠くへ行くな。ここにいろ。そして生きよう。今日を生き延びよう。生きていることが無意味だと理解しながら。